検査あんまり意味ないよ派の人は、陽性如何のデータに依拠しない(自発的)防疫に親和的だから、このパフォーマンスでムードが動いて勤労エートスが変わる見込みがあるなら支持することになるのだろうか。まあ本当にエートスが変わるならそれに越したことはないし、休校自体には反対ではないけれど。


研究者として自立した存在であるべきなのだから、あれこれ教えてもらおうとするな諸々の壁や悩みは自分でどうにかしろ、というエートスを(アドバイスを乞いにくい状況も手伝って)内面化してきたら、他人に教えを乞わないのは謙虚さが足りないみたいな感じになったのは、今でも少し何だかな感が残る。

このお話は中世インドの武人階級の倫理観とエートスが根底にあってそこに極限状態が加わってるからこそ成立しているので、近現代に敷衍することは厳に慎まなくてはならないけど、究極の選択を迫られ選び取る人間の凄みというのはやっぱり打たれるものがある。

日本の労働慣行は現状でもかなりアレなので、移民の流入による労働条件の悪化を恐れるよりは、海外の方々に来ていただけるように整備することがこちら現住民にとってもプラスになる、働きに来てもらうことで服従的な労働エートスにも新風が吹き込んで澱みが軽減する、といい方に考えたほうがいいのかも
「考えられる有力な仮説は、『脱成長派は『日本経済』や『日本人のエートス』の力強さ、秀逸さを固く信じている』ということだ。これは伝統的な日本特殊性論にほかならない」 北田暁大による上野千鶴子批判 synodos.jp/politics/19136

叙事詩が新しいネイションのエートスを作り上げるというのならそれを持たなかった日本は不幸であったのか(古事記は国家による「記録」であり人々の朗誦を目的とはしていない)。今一度それを創造するとなれば、それは記紀に取材したものではなく案外ガライに仮託した『ロト伝説』になるのかもしれぬ。

ただ『舞姫』を教えるというのは日本の学歴エリートのエートスのひな型を、諦観的・感傷的な形であるにせよ提供して若い男子の行動を規制する効果があったのかもしれない。そういう意味ではあの後主人公が官僚を辞してドイツに雄飛していたとしたら、現代日本の風景も少し変っていたかも?

ただ特定の行政施策に対決するあまり、運動のエートスとして行政の機能そのものをパターナリズムとして切り捨ててしまい、交渉の余地を狭めてしまうことも考えられるので、バランスは難しいけど…。

国立大学が「文系廃止」を推し進める裏事情→安倍晋三首相の存在? #ldnews news.livedoor.com/article/detail… 文系学者は中世大学草創期の精神に倣って、野良犬として「見えない大学」の共同体を作り上げ知の生産・継承に携わる、というエートスの変革すら迫られているかも…